なかなかいい容貌《きりょう》である

「ええ。昨夜《ゆうべ》まで、もう一人居たのよ。住替《すみかえ》に行ったのよ。」「お前さんが御主人かい。」「いいえ。御主人は別の家《うち》よ。玉の井館ッて云う寄席《よせ》があるでしょう。その裏に住宅《すまい》があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ。」「じゃアのん気だね。」わたくしはすすめられるがまま長火鉢の側《そば》に坐り、立膝《たてひざ》して茶を入れる女の様子を見やった。 年は二十四五にはなっているであろう。なかなかいい容貌《きりょう》である。鼻筋の通った円顔は白粉焼《おしろいやけ》がしているが、結立《ゆいたて》の島田の生際《はえぎわ》もまだ抜上《ぬけあが》ってはいない。黒目勝の眼の中も曇っていず唇や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壊されても居ないように思われた。「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをして置く用意である。 わたくしは花柳病よりも寧《むしろ》チブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙《はや》くから精神的廢人になったわたくしの身には、花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。「顔でも洗うの。水道なら其処《そこ》にあるわ。」と女の調子は極めて気軽である。「うむ。後でいい。」「上着だけおぬぎなさい。ほんとに随分濡れたわね。」「ひどく降ってるな。」「わたし雷さまより光るのがいやなの。これじゃお湯にも行けやしない。あなた。まだいいでしょう。わたし顔だけ洗って御化粧《おしまい》してしまうから。」

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