初め家《うち》へ上った時

 初め家《うち》へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれない程の降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷《かみなり》の響も歇んで、亜鉛葺《とたんぶき》の屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音《あしおと》も途絶えていたが、突然、「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌《どじょう》が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄の音がしだした。 女はつと立ってリボンの間から土間の方を覗《のぞ》き、「家《うち》は大丈夫だ。溝《どぶ》があふれると、此方《こっち》まで水が流れてくるんですよ。」「少しは小降りになったようだな。」「宵の口に降るとお天気になっても駄目なのよ。だから、ゆっくりしていらっしゃい。わたし、今の中《うち》に御飯たべてしまうから。」 女は茶棚の中から沢庵漬《たくあんづけ》を山盛りにした小皿と、茶漬茶碗と、それからアルミの小鍋を出して、鳥渡《ちょっと》蓋《ふた》をあけて匂をかぎ、長火鉢の上に載せるのを、何かと見れば薩摩芋《さつまいも》の煮たのである。「忘れていた。いいものがある。」とわたくしは京橋で乗換の電車を待っていた時、浅草|海苔《のり》を買ったことを思い出して、それを出した。「奥さんのお土産《みやげ》。」「おれは一人なんだよ。食べるものは自分で買わなけれア。」「アパートで彼女と御一緒。ほほほほほ。」「それなら、今時分うろついちゃア居られない。雨でも雷でも、かまわず帰るさ。」

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