小説「失踪」の一節

 靴をはいている間《あいだ》に、女は小窓の下に置いた物の中から三味線のバチの形に切った名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子。「さよなら。」「まっすぐにお帰んなさい。」

[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]

[#5字下げ]小説「失踪」の一節 吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚《よ》せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合《まちあわ》しているのである。 橋の上には円タクの外《ほか》電車もバスももう通っていなかったが、二三日前から俄《にわか》の暑さに、シャツ一枚で涼んでいるものもあり、包をかかえて帰りをいそぐ女給らしい女の往き来もまだ途絶えずにいる。種田は今夜すみ子の泊っているアパートに行き、それからゆっくり行末の目当を定めるつもりなので、行った先で、女がどうなるものやら、そんな事は更に考えもせず、又考える余裕もない。唯|今日《こんにち》まで二十年の間家族のために一生を犠牲にしてしまった事が、いかにもにがにがしく、腹が立ってならないのであった。「お待ちどうさま。」思ったより早くすみ子は小走りにかけて来た。「いつでも、駒形橋《こまがたばし》をわたって行くんですよ。だけれど、兼子さんと一緒だから。あの子、口がうるさいからね。」「もう電車はなくなったようだぜ。」

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