アパートでつかまった話

「歩いたって、停留場三つぐらいだわ。その辺から円タクに乗りましょう。」「明いた部屋があればいいが。」「無かったら今夜一晩ぐらい、わたしのとこへお泊んなさい。」「いいのか、大丈夫か。」「何がさ。」「いつか新聞に出ていたじゃないか。アパートでつかまった話が……。」「場所によるんだわ。きっと。わたしの処なんか自由なもんよ。お隣も向側もみんな女給さんかお妾《めかけ》さんよ。お隣りなんか、いろいろな人が来るらしいわ。」 橋を渡り終らぬ中に流しの円タクが秋葉神社の前まで三十銭で行く事を承知した。「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」「向嶋の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」「玉の井――こんな方角だったかね。」「御存じ。」「たった一度見物に行った。五六年前だ。」「賑《にぎやか》よ。毎晩夜店が出るし、原っぱに見世物もかかるわ。」「そうか。」 種田は通過《とおりすぎ》る道の両側を眺めている中、自動車は早くも秋葉神社の前に来た。すみ子は戸の引手を動しながら、「ここでいいわ。はい。」と賃銭をわたし、「そこから曲りましょう。あっちは交番があるから。」 神社の石垣について曲ると片側は花柳界の灯《あかり》がつづいている横町の突当り。俄に暗い空地の一隅に、吾妻アパートという灯が、セメント造りの四角な家の前面を照している。すみ子は引戸をあけて内《なか》に入り、室の番号をしるした下駄箱に草履をしまうので、種田も同じように履物を取り上げると、

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