わたし父の商売

「さア、やっぱり都会のあこがれだと思うんだが、そうじゃないのか。」「それも無論そうだけれど、それよりか、わたし父の商売が、とてもいやだったの。」「何だね。」「親分とか侠客《きょうかく》とかいうんでしょう。とにかく暴力団……。」とすみ子は声を低くした。

[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]

 梅雨《つゆ》があけて暑中になると、近鄰の家の戸障子が一斉に明け放されるせいでもあるか、他の時節には聞えなかった物音が俄に耳立ってきこえて来る。物音の中で最もわたくしを苦しめるものは、板塀《いたべい》一枚を隔てた鄰家のラディオである。 夕方少し涼しくなるのを待ち、燈下の机に向おうとすると、丁度その頃から亀裂《ひび》の入《い》ったような鋭い物音が湧起《わきおこ》って、九時過ぎてからでなくては歇まない。此の物音の中でも、殊に甚《はなはだ》しくわたくしを苦しめるものは九州弁の政談、浪花節《なにわぶし》、それから学生の演劇に類似した朗読に洋楽を取り交ぜたものである。ラディオばかりでは物足らないと見えて、昼夜時間をかまわず蓄音機で流行唄《はやりうた》を鳴《なら》し立てる家もある。ラディオの物音を避けるために、わたくしは毎年夏になると夕飯《ゆうめし》もそこそこに、或時は夕飯も外で食うように、六時を合図にして家を出ることにしている。ラディオは家を出れば聞えないというわけではない。道端の人家や商店からは一段烈しい響が放たれているのであるが、電車や自動車の響と混淆《こんこう》して、市街一般の騒音となって聞えるので、書斎に孤坐している時にくらべると、歩いている時の方が却て気にならず、余程楽である。「失踪」の草稿は梅雨があけると共にラディオに妨げられ、中絶してからもう十日あまりになった。どうやら其《その》まま感興も消え失せてしまいそうである。

— posted by id at 03:38 pm  

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