勘定の持逃げ

「居続したお客は何だった。泥棒か。」「呉服屋さんだったわ。とうとう店の檀那《だんな》が来て連れて行ったわ。」「勘定の持逃げだね。」「そうでしょう。」「おれは大丈夫だよ。其方《そのほう》は。」と言ったが、女はどちらでも構わないという顔をして聞返しもしなかった。 然しわたくしの職業については、女の方ではとうから勝手に取りきめているらしい事がわかって来た。 二階の襖《ふすま》に半紙四ツ切程の大きさに複刻した浮世絵の美人画が張交《はりまぜ》にしてある。その中には歌麻呂の鮑《あわび》取り、豊信《とよのぶ》の入浴美女など、曾《かつ》てわたくしが雑誌|此花《このはな》の挿絵《さしえ》で見覚えているものもあった。北斎の三冊本、福徳和合人の中から、男の姿を取り去り、女の方ばかりを残したものもあったので、わたくしは委《くわ》しくこの書の説明をした。それから又、お雪がお客と共に二階へ上っている間、わたくしは下の一ト間で手帳へ何か書いていたのを、ちらと見て、てっきり秘密の出版を業とする男だと思ったらしく、こん度来る時そういう本を一冊持って来てくれと言出した。 家には二三十年前に集めたものの残りがあったので、請われるまま三四冊一度に持って行った。ここに至って、わたくしの職業は言わず語らず、それと決められたのみならず、悪銭の出処《でどころ》もおのずから明瞭になったらしい。すると女の態度は一層打解けて、全く客扱いをしないようになった。 日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多《かた》の実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川《かもがわ》の芸妓は幕吏に追われる志士を救い、寒駅の酌婦は関所破りの博徒に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄《とうざん》の貧士に食を与え、三千歳《みちとせ》は無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。

— posted by id at 03:39 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.0707 sec.

http://aiko-aoyama.jp/