東武電車

 此《ここ》に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若《も》しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。この他《た》の人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊《さしつかえ》はない。謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局|憚《はばか》るものはない。ただ独《ひとり》恐る可《べ》きは操觚《そうこ》の士である。十余年前銀座の表通に頻《しきり》にカフエーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙《こぞ》ってわたくしを筆誅《ひっちゅう》した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼等はわたくしが夜|竊《ひそか》に墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐る可きである。 毎夜電車の乗降りのみならず、この里へ入込んでからも、夜店の賑《にぎわ》う表通は言うまでもない。路地の小径《こみち》も人の多い時には、前後左右に気を配って歩かなければならない。この心持は「失踪《しっそう》」の主人公種田順平が世をしのぶ境遇を描写するには必須《ひっしゅ》の実験であろう。

[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]

 わたくしの忍んで通う溝際《どぶぎわ》の家が寺島町七丁目六十何番地に在ることは既に識《しる》した。この番地のあたりはこの盛場では西北の隅《すみ》に寄ったところで、目貫《めぬき》の場所ではない。仮に之を北里に譬《たと》えて見たら、京町一丁目も西|河岸《がし》に近いはずれとでも言うべきものであろう。聞いたばかりの話だから、鳥渡《ちょっと》通《つう》めかして此盛場の沿革を述べようか。大正七八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭《せば》められ、広い道路が開かれるに際して、むかしから其辺に櫛比《しっぴ》していた楊弓場《ようきゅうば》銘酒屋のたぐいが悉《ことごと》く取払いを命ぜられ、現在《いま》でも京成バスの往復している大正道路の両側に処定めず店を移した。つづいて伝法院の横手や江川《えがわ》玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆《ほとんど》軒並銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖《そで》を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣《りょううんかく》の裏手から公園の北側千束町の路地に在ったものが、手を尽して居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面へ逃げて来た。市街再建の後|西見番《にしけんばん》と称する芸者家組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った。初め市中との交通は白髯橋《しらひげばし》の方面一筋だけであったので、去年京成電車が運転を廃止する頃までは其停留場に近いところが一番|賑《にぎやか》であった。 然るに昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では端《はず》れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席《よせ》、活動写真館、玉の井|稲荷《いなり》の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗《りぞく》広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊《ふくそう》と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙《へんぴ》な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。況《いわん》や人の一生に於いてをや。

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