お雪が住む家の茶の間

[#ここから2字下げ]そのあたり片づけて吊る蚊帳《かちょう》哉《かな》さらぬだに暑くるしきを木綿蚊帳《もめんがや》家中《いえじゅう》は秋の西日や溝《どぶ》のふちわび住みや団扇《うちわ》も折れて秋暑し蚊帳の穴むすびむすびて九月哉屑籠《くづかご》の中からも出て鳴く蚊かな残る蚊をかぞへる壁や雨のしみこの蚊帳も酒とやならむ暮の秋[#ここで字下げ終わり]

 これはお雪が住む家の茶の間に、或夜蚊帳が吊ってあったのを見て、ふと思出した旧作の句である。半《なかば》は亡友|唖々《ああ》君が深川長慶寺裏の長屋に親の許さぬ恋人と隠れ住んでいたのを、其折々尋ねて行った時よんだもので、明治四十三四年のころであったろう。 その夜お雪さんは急に歯が痛くなって、今しがた窓際から引込んで寝たばかりのところだと言いながら蚊帳から這《は》い出したが、坐る場処がないので、わたくしと並んで上框《あがりがまち》へ腰をかけた。「いつもより晩《おそ》いじゃないのさ。あんまり、待たせるもんじゃないよ。」 女の言葉遣いはその態度と共に、わたくしの商売が世間を憚るものと推定せられてから、狎昵《こうじつ》の境《さかい》を越えて寧《むしろ》放濫《ほうらん》に走る嫌いがあった。「それはすまなかった。虫歯か。」「急に痛くなったの。目がまわりそうだったわ。腫《は》れてるだろう。」と横顔を見せ、「あなた。留守番していて下さいな。わたし今の中《うち》歯医者へ行って来るから。」「この近処か。」

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