検査場《けんさば》のすぐ手前

「検査場《けんさば》のすぐ手前よ。」「それじゃ公設市場の方だろう。」「あなた。方々歩くと見えて、よく知ってるんだねえ。浮気者。」「痛い。そう邪慳《じゃけん》にするもんじゃない。出世前の身体《からだ》だよ。」「じゃ頼むわよ。あんまり待たせるようだったら帰って来るわ。」「お前待ち待ち蚊帳の外……と云うわけか。仕様がない。」 わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。これは身分を隠そうが為の手段ではない。処と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操《あやつ》るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向の人が言ったら此方《こっち》も「おら」を「わたくし」の代りに使う。説話《はなし》は少し余事にわたるが、現代人と交際する時、口語を学ぶことは容易であるが文書の往復になると頗《すこぶる》困難を感じる。殊に女の手紙に返書を裁する時「わたし」を「あたし」となし、「けれども」を「けど」となし、又何事につけても、「必然性」だの「重大性」だのと、性の字をつけて見るのも、冗談半分口先で真似をしている時とはちがって、之を筆にする段になると、実に堪難い嫌悪《けんお》の情を感じなければならない。恋しきは何事につけても還らぬむかしで、あたかもその日、わたくしは虫干をしていた物の中に、柳橋《やなぎばし》の妓にして、向嶋小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。手紙には必ず候文《そうろうぶん》を用いなければならなかった時代なので、その頃の女は、硯《すずり》を引寄せ筆を秉《と》れば、文字を知らなくとも、おのずから候可く候の調子を思出したものらしい。わたくしは人の嗤笑《ししょう》を顧ず、これをここに録したい。

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