手には風呂敷に包んだものを持っている

 わたくしは大方馴染の客であろうと思い、出ようか出まいかと、様子を窺《うかが》っていると、外の男は窓口から手を差入れ、猿をはずして扉《と》をあけて内《なか》へ入った。白っぽい浴衣《ゆかた》に兵児《へこ》帯をしめ、田舎臭い円顔に口髯《くちひげ》を生《はや》した年は五十ばかり。手には風呂敷に包んだものを持っている。わたくしは其様子と其顔立とで、直様《すぐさま》お雪の抱主《かかえぬし》だろうと推察したので、向から言うのを待たず、「お雪さんは何だか、お医者へ行くって、今おもてで逢いました。」 抱主らしい男は既にその事を知っていたらしく、「もう帰るでしょう。待っていなさい。」と云って、わたくしの居たのを怪しむ風もなく、風呂敷包を解いて、アルミの小鍋を出し茶棚の中へ入れた。夜食の惣菜《そうざい》を持って来たのを見れば、抱主に相違はない。「お雪さんは、いつも忙しくって結構ですねえ。」 わたくしは挨拶のかわりに何かお世辞を言わなければならないと思って、そう言った。「何ですか。どうも。」と抱主の方でも返事に困ると云ったような、意味のない事を言って、火鉢の火や湯の加減を見るばかり。面と向ってわたくしの顔さえ見ない。寧《むし》ろ対談を避けるというように横を向いているので、わたくしも其まま黙っていた。 こういう家の亭主と遊客との対面は、両方とも甚《はなはだ》気まずいものである。貸座敷、待合茶屋、芸者家などの亭主と客との間もまた同じことで、此両者の対談する場合は、必ず女を中心にして甚気まずい紛擾《ごたごた》の起った時で、然らざる限り対談の必要が全くないからでもあろう。 いつもお雪が店口で焚《た》く蚊遣香《かやりこう》も、今夜は一度もともされなかったと見え、家中《いえじゅう》にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口の中へも飛込もうとするのに、土地馴れている筈の主人も、暫く坐っている中《うち》我慢がしきれなくなって、中仕切の敷居際に置いた扇風機の引手を捻《ねじ》ったが破《こわ》れていると見えて廻らない。火鉢の抽斗《ひきだし》から漸《ようや》く蚊遣香の破片《かけら》を見出した時、二人は思わず安心したように顔を見合せたので、わたくしは之を機会に、「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。」と言うと、

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