窓口に坐っている女の顔

 上って来たお雪はすぐ窓のある三畳の方へ行って、染模様の剥《は》げたカーテンを片寄せ、「此方《こっち》へおいでよ。いい風だ。アラまた光ってる。」「さっきより幾らか涼しくなったな、成程いい風だ。」 窓のすぐ下は日蔽《ひおい》の葭簀《よしず》に遮《さえぎ》られているが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐っている女の顔、往ったり来たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空《なかぞら》までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしている。お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、暫く空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」「おれ見たようなもの。仕様がないじゃないか。」「ハスになる資格がないって云うの。」「食べさせることができなかったら資格がないね。」 お雪は何とも言わず、路地のはずれに聞え出したヴィヨロンの唄につれて、鼻唄をうたいかけたので、わたくしは見るともなく顔を見ようとすると、お雪はそれを避けるように急に立上り、片手を伸して柱につかまり、乗り出すように半身を外へ突出した。「もう十年わかけれア……。」わたくしは茶ぶ台の前に坐って巻煙草に火をつけた。「あなた。一体いくつなの。」 此方《こなた》へ振向いたお雪の顔を見|上《あげ》ると、いつものように片靨《かたえくぼ》を寄せているので、わたくしは何とも知れず安心したような心持になって、「もうじき六十さ。」

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