わたしの年は水商売には向くんだ

「わたしの年は水商売には向くんだとさ。だけれど行先の事はわからないわ。ネエ。」 じっと顔を見詰められたので、わたくしは再び妙に不安な心持がした。まさかとは思うものの、何だか奥歯に物の挾《はさ》まっているような心持がして、此度《こんど》はわたくしの方が空の方へでも顔を外向《そむ》けたくなった。 表通りのネオンサインが反映する空のはずれには、先程から折々稲妻が閃《ひらめ》いていたが、この時急に鋭い光が人の目を射た。然し雷の音らしいものは聞えず、風がぱったり歇《や》んで日の暮の暑さが又むし返されて来たようである。「いまに夕立が来そうだな。」「あなた。髪結さんの帰り……もう三月《みつき》になるわネエ。」 わたくしの耳にはこの「三月になるわネエ。」と少し引延ばしたネエの声が何やら遠いむかしを思返すとでも云うように無限の情《じょう》を含んだように聞きなされた。「三月になります。」とか「なるわよ。」とか言切ったら平常《つね》の談話に聞えたのであろうが、ネエと長く引いた声は咏嘆《えいたん》の音《おん》というよりも、寧《むしろ》それとなくわたくしの返事を促す為に遣われたもののようにも思われたので、わたくしは「そう……。」と答えかけた言葉さえ飲み込んでしまって、唯|目容《まなざし》で応答をした。 お雪は毎夜路地へ入込む数知れぬ男に応接する身でありながら、どういう訳で初めてわたくしと逢った日の事を忘れずにいるのか、それがわたくしには有り得べからざる事のように考えられた。初ての日を思返すのは、その時の事を心に嬉しく思うが為と見なければならない。然しわたくしはこの土地の女がわたくしのような老人《としより》に対して、尤《もっと》も先方ではわたくしの年を四十歳位に見ているが、それにしても好いたの惚《ほ》れたのというような若《もし》くはそれに似た柔く温《あたたか》な感情を起し得るものとは、夢にも思って居なかった。 わたくしが殆ど毎夜のように足繁く通って来るのは、既に幾度か記述したように、種々《いろいろ》な理由があったからである。創作「失踪」の実地観察。ラディオからの逃走。銀座丸ノ内のような首都枢要の市街に対する嫌悪。其他の理由もあるが、いずれも女に向って語り得べき事ではない。わたくしはお雪の家を夜の散歩の休憩所にしていたに過ぎないのであるが、そうする為には方便として口から出まかせの虚言《うそ》もついた。故意に欺くつもりではないが、最初女の誤り認めた事を訂正もせず、寧ろ興にまかせてその誤認を猶《なお》深くするような挙動や話をして、身分を晦《くらま》した。この責だけは免れないかも知れない。

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