小説「失踪」の一篇

 わたくしはこの夏のはじめに稿を起した小説「失踪」の一篇を今日《こんにち》に至るまでまだ書き上げずにいるのである。今夜お雪が「三月《みつき》になるわねえ。」と言ったことから思合せると、起稿の日はそれよりも猶以前であった。草稿の末節は種田順平が貸間の暑さに或夜同宿の女給すみ子を連れ、白髯橋の上で涼みながら、行末の事を語り合うところで終っているので、わたくしは堤を曲らず、まっすぐに橋をわたって欄干に身を倚《よ》せて見た。 最初「失踪」の布局を定める時、わたくしはその年二十四になる女給すみ子と、其年五十一になる種田の二人が手軽く情交を結ぶことにしたのであるが、筆を進めるにつれて、何やら不自然であるような気がし出したため、折からの炎暑と共に、それなり中休みをしていたのである。 然るに今、わたくしは橋の欄干に凭《もた》れ、下流《かわしも》の公園から音頭踊《おんどおどり》の音楽と歌声との響いて来るのを聞きながら、先程お雪が二階の窓にもたれて「三月になるわネエ。」といった時の語調や様子を思返すと、すみ子と種田との情交は決して不自然ではない。作者が都合の好いように作り出した脚色として拆《しりぞ》けるにも及ばない。最初の立案を中途で変える方が却てよからぬ結果を齎《もたら》すかも知れないと云う心持にもなって来る。 雷門から円タクを傭《やと》って家に帰ると、いつものように顔を洗い髪を掻直した後、すぐさま硯《すずり》の傍《そば》の香炉《こうろ》に香を焚いた。そして中絶した草稿の末節をよみ返して見る。

「あすこに見えるのは、あれは何だ。工場《こうば》か。」「瓦斯《ガス》会社か何《なん》かだわ。あの辺はむかし景色のいいところだったんですってね。小説でよんだわ。」「歩いて見ようか。まだそんなに晩《おそ》かアない。」

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